人はどれかを選ばなくてはいけない。

以前に

トレードオフからは逃げられない

という記事を書いたことがある。

何かを選ぶとは、何かをあきらめるということ

選ぶということは難しい?

そう思っているとヒントがあった。

「肝心なものを肝心なままにしておく」

より少なく。しかし、より良く。

絶対に「イエス」と言い切れないのなら、「ノー」である 

最も厳しい基準で決める。

この言葉を言った人が言うには次の通りだ。

・上位10%にだけイエスという。

・まさに自分の求めていたことだからやる。

これはかなり自分に厳しい条件だろう。

言われたことの90%は断るって事は普通の一般人には厳しいかもしれない。

しかし、なんでもかんでもやってしまうのも自分をダメにしてしまうと言っている。

自分の中の光る部分、すなわち強みまでも殺してしまうからだ。

無個性な何でも屋になってしまう。

替えの効く人材になってしまう。

今の日本ではこの先外国人労働者、AIの技術に取って代わられるかもしれない。

そう考えながら日々を過ごそう。

10%だけの「イエス」は難しいだろう、

それに限りなく近づけることが出来るかもしれない。

自分の中でキラリと光る強み。

消してはいけない。

肝心なのは…

次々にやってくる選択にどうやって対応していけばいいのかを前もって対策しておくべきだと感じた。

「イエス」の基準はある程度分かった。

次は自分の中で本当に大事なことは何か?

ということに尽きるだろう。

「肝心なのは、肝心なことを肝心なままにしておく」

本当に大事だと思うことは貫き通すということなのかもしれない。

人にいろいろ言われるかもしれない。

きっと理論的にや、正論でまくし立ててくるだろう。

その時、肝心だと思うことを曲げず貫ける。

そんなメンタルが欲しい。

そんな意志力のある人間でいたい。

その意思が自分を守ってくれそうだ。

人と同化しない

自分で選ばないとその先はなさそうだ。

仕事や遊び、その他諸々、人生全般その必要があるように思える。

そうなってくると周りの目何て気にしてはいけないということが分かる。

少しばかりの成功を収めた人があーしろこーしろと言ってくる。

上からアドバイスを言ってくる、ように見せかけてマウントばかり取ってくる。

人が「イエス」と言っているとき「ノー」と自分は言えるだろうか?

人が行動しているとき自分はじっと考えることが出来るだろうか?

思えば流されるように生きてきた。

楽で安定した生活だった。

楽しみは確かにあった。

でも、自由や楽しさは少なかったような気がする。

楽しみの中にも生活の事や仕事の事が頭から離れない。

常に着信を気にしなければならない。

メールを見逃してはいけない。

常に繋がれている、

そんな人生だった気がする。

それが普通だと刷り込まれていたってことだ。

人は人。

自分は自分。

こんな簡単なことが分かっていてもできなかった。

周りと同化してはいけない

自分でなくてはいけない。

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